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顎からサイドに掛けて 鉄板をイメージしたラインで構成した。このシーズン中、基本的なメーターのデザインは変えず、2種類ペイントした。大治郎はその後、全日本で脅速ぶりを発揮し大注目の選手になる。こちらも当初は担当したライダーなので気になる程度だったが、その活躍ぶりに最初のイメージはふっ飛んでしまい、デザインにも新しい試みを色々と試すよ
うになった。またその飄々としたキャラクターに伴い“大ちゃん”と呼ばれ人気者になっていった。
1996年シーズンにはヘルメットデザインを一新した。後頭部に目を中心とした顔のデザインを採用した。後にダイジローアイと呼ばれる事になる この部分は、後続のライダーを威嚇する意味を込めてのデザインで、初期形をよく見ると実はキャップをかぶった顔になっているのである。キャップのつばの部分にちょうどDaijiroのネームが入っている。
気が付いた人はいるのだろうか。 |
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残念ながら全日本第1戦は欠場。しかしスポット参戦の鈴鹿日本GPにケガをおして出場。原田哲也、宇川徹など既にWGPにフル参戦し活躍している日本人ライダーを相手に激しいバトルを
展開し優勝してしまう。1998年、ショウエイヘルメットより大治郎レプリカが発売される。
大治郎のWGPフル参戦は2000年まで持ち越す事になる。 1998年には全日本チャンピオンになったがワールドフル参戦にはいたらなかった。待ちに待ったフル参戦。前年にデビューした中野真矢、3年目の宇川徹、大治郎と同時にフル参戦した松戸直樹など全日本のライバルが多数エントリーする事になった。この年ランキングを3位で終了。ルーキーオブザイヤーを獲得した。テレビで活躍する大治郎はレース中はものすごく速く、ルーキーとは思えない走りを見せていたが
インタビューでは見ているこっちがはらはらドキドキだった。何か質問されても答えるのにじっくり時間をかけるので、答える前にインタビューアが次の質問 に移ってしまう事もあり、何か子供を相手にしているようで微笑ましかった。そんなキャラクターであるから世界の舞台に立ってもすぐにファンを確立して行った。
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2002年、最高峰MOTOGPにステップアップ。この年から4サイクルマシンと2サイクルマシンの混走となり、大治郎は2サイクルマシンのNSR500でのレースとなった。しかし序盤のスペインで2位に入り、速さを見せるものの4サイクルマシンとの差がシーズンが進むにつれ大きくなり苦戦を強いられる様になった。だが第10戦のチェコで4サイクルマシンのRC211Vを与えられ、ぶっつけ本番ながら予選2位を獲得、決勝でも2位に入りただ者ではないところを見せた。その後のレースは雨にたたられたり、他車のクラッシュに巻き込まれたりと歯車が合わず表彰台に上る事は出来なかったが、98年250クラスで獲得した
のに引き続きトップカテゴリーでもルーキーオブザイヤーを手に入れた。
この年の8耐の事前テストで帰国した大治郎に、ショウエイの時期新型ヘルメットに伴うニューグラフィックの打ち合わせの為鈴鹿に向かった。 ショウエイスタッフと2人で伺ったのだが、相変わらずの大ちゃんだった。しかし最初に会った17歳の頃とは比べ物にならない逞しさと特別な空気を感じ
させた。 このニューグラフィックには自分としても集大成的な意味合いを持たせていた。大治郎は全世界から注目され、バレンチノ・ロッシからもライバルと公言さ れていたし、ヘルメットも最新の技術で開発した新型であった。
基盤模様はペイントするのに大変な労力を必要とし、複雑さを極めていた。しかし遠目から見ても一瞬で大治郎と判別できた。もちろんダイジロウアイも稲 妻も健在である。これに大治郎が好きな黄色をいれ、当初、赤青の今までのイメージそのままのカラーでデザインした。
年が開け2003年、チーム体制が250でチャンピオンをとった時とおなじテレフォニカになり ブルーがチームカラーとなった。それに合わせて赤をメインカラーとしていたヘルメットもブルー主体となった。
シーズンオフからテストで好調が伝えられ、期待は高まるばかりだった。 日本人初のトップクラス制覇なるか。チャンピオンになる可能性が最も高い日本人として 誰もが注目していた。
2003年の鈴鹿のレースはオートバイに関わる全ての人にとって、忘れる事が出来ない悲しい物となった。素晴らしく晴れ渡った空に響き渡った“大治郎 クラッシュ!”の絶叫はレースの結果を忘れてしまう程、耳に残り消す事が出来ない。2週間もの間生死を彷徨い、大勢の祈りも届かず4月20日、遂に力尽き逝ってしまった。
26歳の若さであった。 |
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資料協力:福山ゆうじ氏 |
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